2026年前期のNHK連続テレビ小説「風、薫る」も、放送は後半戦に入りました。
主人公・一ノ瀬りんが「トレインドナース(訓練を受けた看護婦)」を目指す物語に、朝ドラファンからは「実在モデルはいるの?」という声が広がっています。
結論から言うと、実在モデルは大関和(おおぜき ちか)さんと鈴木雅(すずき まさ)さんの2人です。
ピクこの記事では、実在モデル・派出看護婦の歴史・明治大正の看護婦制度まで、公的資料をもとに丁寧にまとめました。
朝ドラ「風、薫る」で描かれる訪問看護とは


「風、薫る」で描かれる訪問看護は、明治期に登場した「派出看護(はしゅつかんご)」という仕組みが下敷きになっています。
本作は2026年3月30日に放送を開始した、全26週130回の連続テレビ小説です。
物語は1882年(明治15年)の栃木県那須から始まります。
(参照:NHK公式「連続テレビ小説 風、薫る」)
主人公の一ノ瀬りん(見上愛さん)は、元武家の農家に育ち、父・信右衛門をコレラで亡くします。
その後は成り上がりの奥田亀吉に嫁ぎますが、夫の酒乱に悩まされ、娘の環を連れて婚家を出て上京しました。
上京先で出会うのが、もう一人のヒロイン・大家直美(上坂樹里さん)です。
二人がそろってトレインドナースを目指す、W主演の朝ドラとなっています。
(参照:Wikipedia「風、薫る」)



【ネタバレ含む】主人公りんの訪問看護シーン注目ポイント
ここからは公式発表と原案に基づく軽いネタバレを含みます。
まっさらな状態で観たい方はご注意ください。
りんと直美は1886年(明治19年)、劇中の「梅岡女学校附属看護婦養成所」に入学します。
この養成所は、史実の「桜井女学校附属看護婦養成所」をモデルにした架空の名称です。
ドラマ公式のあらすじによれば、二人は養成所卒業後に同じ大学病院でトレインドナースとしてデビューします。
しかし、りんは程なくして職場を追われることになります。
一方、アメリカ留学を夢見る直美は渡航直前に思わぬできごとに巻き込まれます。
やがてコレラや赤痢などの疫病が全国で猛威をふるい、一度離れた二人が再び手を取り合う展開が公式に示されています。
(参照:映画ナタリー「風、薫る」作品情報)
史実の大関和さんは1909年に自身の看護婦会を開いています。
物語終盤でりんが同様の道を歩む可能性は高いです。
※この終盤展開は史実からの推定・予想です。



キャスト相関図で人物関係を整理したい方は、こちらの記事もあわせてどうぞ。→ 風、薫るキャスト相関図まとめ
訪問看護の実在モデルは大関和と鈴木雅の2人


「風、薫る」の実在モデルは、次の2人です。
- 大関和(おおぜき ちか/1858-1932):一ノ瀬りんのモチーフ
- 鈴木雅(すずき まさ/1857-1940):大家直美のモチーフ
本作は歴史研究者・田中ひかる氏の著作『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中公文庫)を原案として制作されています。
二人は桜井女学校附属看護婦養成所の同期生であり、その後もそれぞれ日本の近代看護を切り開いた実在の人物です。
(参照:日経BOOKプラス|原案者・田中ひかる氏インタビュー)



実在モデル①:大関和(日本近代看護のパイオニア)
大関和さんは1858年、栃木県の黒羽藩(現・大田原市)の家老の家に生まれました。
18歳で結婚して1男1女をもうけますが、のちに離婚。
2人の子どもを連れて上京し、実家に身を寄せながら育てていました。
転機は、牧師・植村正久との出会いです。
教会に通うようになり、植村の勧めで看護の道を勧められます。
家老の家に生まれた誇りもあり当初はためらいましたが、「苦しむ人を救う看護はキリスト教の博愛精神にかなう」と考え、決意を固めました。
1886年、桜井女学校附属看護婦養成所に一期生として入学します。
指導にあたったのは、ナイチンゲール看護学校を卒業した英国人看護師アグネス・ヴェッチでした。
1887年には帝国大学医科大学附属第一医院での実習が始まり、大関和・鈴木雅ら6人が「看病の要旨」「包帯術」「消毒法」など9項目を学んでいます。
1888年(明治21年)10月に卒業し、そのまま第一医院の外科看病婦取締(現在の看護婦長)に就任しました。
その後は新潟県の高田女学校で伝道師・舎監を務め、1891年からは知命堂病院の初代看護婦長として産婆看護婦の養成にも携わります。
1896年に上京し、同期の鈴木雅さんが設立した東京看護婦会の教師に就任。
1906年からは同会の会頭を務めました。
そして1909年11月、神田猿楽町に独立して「大関看護婦会」を開設。
優良な看護婦の養成と派出看護業務に乗り出します。
著書には『派出看護婦心得』(1899年)『実地看護法』(1908年)があり、看護を「経験」から「技術と知識の体系」へ引き上げた功績で知られます。
看護以外にも、廃娼運動・禁酒運動・婦人参政権運動など、女性の地位向上の活動に幅広く関わりました。
(参照:コトバンク「大関和」)



実在モデル②:鈴木雅(派出看護婦会の創始者)
大家直美のモチーフとされる鈴木雅さん(1857-1940)は、日本で最初の個人経営の派出看護婦会を立ち上げた人物です。
鈴木さんは桜井女学校附属看護婦養成所で大関和さんと同期でした。
英語力に優れ、養成所では英語通訳も務めたと伝えられています。
1891年(明治24年)、鈴木さんは「慈善看護婦会」を設立します。
これがのちに「東京看護婦会」と改称されました。
つまり、日本の派出看護(訪問看護の原型)を組織として最初に形にしたのは、大関和さんではなく鈴木雅さんのほうです。
1896年には同期の大関和さんを教師として招き、大関さんはのちにこの会の会頭を引き継ぎました。
二人は「ライバル」というより、日本の看護を役割分担で築いた盟友だったと言えます。
ドラマとの大きな違いは出自です。
直美は「教会に捨てられた孤児」という設定ですが、史実の鈴木雅さんは武家の出身でした。
良家の娘であるりんとの対比を強めるため、直美の出自は大きく脚色されていると考えられます。
※出自の脚色意図についてはピクトレの考察です。



明治時代の看護婦教育・制度


明治初期の日本には、専門教育を受けた「近代的な看護婦」という職業がほぼ存在していませんでした。
転機になったのが、1885年前後に相次いで開設された次の3つの養成機関です。
- 有志共立東京病院看護婦教育所(1885年/のちの慈恵看護婦教育所)
- 京都看病婦学校(1886年)
- 桜井女学校附属看護婦養成所(1886年)
桜井女学校は、現在の女子学院の前身のひとつにあたります。
養成所の設置を実現させたのは、学校を実質的に経営していた宣教師マリア・ツルーでした。
(参照:女子学院 中学校・高等学校|日本最初の「看護婦」大関ちか)
1888年は、桜井・慈恵・京都の3校がそろって最初の卒業生を送り出した年です。
この年が、日本におけるトレインドナース誕生の年と位置づけられています。
なお、看護婦の身分を全国統一の基準で定めた「看護婦規則」が制定されるのは、さらに後の1915年(大正4年)です。



派出看護・巡回看護の始まり
派出看護とは、看護婦会に登録した看護婦が依頼を受け、患者の家庭に泊まり込んで世話や医師の指示補助を行う仕組みです。
養成所を出た看護婦の多くは、当初は病院ではなくこの派出看護婦として個人宅で働きました。
当時はまだ病院の数が限られており、療養の場は「家」が中心だったためです。
その受け皿を最初に組織化したのが、1891年に鈴木雅さんが設立した慈善看護婦会(東京看護婦会)でした。
1909年開設の大関看護婦会は、その流れを引き継ぎ、養成の質を高めることに力を注いだ会です。
一方、「巡回看護」は、看護婦が地域の複数の家庭を順に回って診療補助や衛生指導を行う仕組みです。
泊まり込みの派出看護に対し、こちらは短時間で複数世帯を訪ねる形。
現代の訪問看護により近い形態と言えます。



大正時代の看護婦の社会的地位
1915年(大正4年)の内務省令「看護婦規則」により、看護婦は全国統一の基準を持つ免許制の職業として位置づけられました。
それまで「病人の世話をする女性」というあいまいな存在だった看護婦が、明確な専門職として社会に認知されていきます。
大正期は、女性が経済的に自立できる数少ない職業として看護婦が注目された時代でもありました。
とくに派出看護婦会は、家計を支える必要のある女性たちの受け皿として機能しました。
ただし、待遇面の課題は長く残りました。
大関和さんが第一医院を退職した理由のひとつも、待遇改善の主張が通らなかったためと伝えられています。
「風、薫る」の物語も、明治15年の栃木からスタートし、こうした制度整備の時代に向かって進んでいきます。
訪問看護と現代の在宅医療の違い
ここは歴史・文化面の紹介として整理します(本記事は医療助言ではありません)。
明治大正期の派出看護は、「看護婦個人が家庭に住み込みで付き添う」形が中心でした。
医師の指示が常時届くわけではなく、看護婦自身の判断に頼る場面も多かったとされます。
だからこそ、大関和さんは『派出看護婦心得』のような手引き書を著し、判断の基準を言語化しようとしました。
一方、現代の訪問看護は「訪問看護ステーション」に所属する看護師が、主治医の指示書に基づいて患者宅を計画的に訪問する仕組みです。
公的な医療保険・介護保険の枠組みに組み込まれている点も、当時とは決定的に違います。
制度の骨格はまったく違いますが、「病院ではなく、患者の暮らしの場に看護が出向く」という発想の原点は、りんたちの時代にすでにありました。
「風、薫る」で描かれる時代考証の丁寧さ


「風、薫る」は原案が実在人物の評伝であるため、比較的史実寄りの朝ドラです。
時代設定の1882年(明治15年)は、コレラが繰り返し流行した時期にあたります。
りんの父がコレラで亡くなる導入は、当時の社会状況をきちんと反映したものです。
実在人物も多数登場します。
りんと直美に看護の道を勧める大山捨松、明六社に所属した商人・清水卯三郎などが劇中に登場します。
キャストは、りんの父・一ノ瀬信右衛門役に北村一輝さん、母・美津役に水野美紀さんという布陣です。
ほかにも多部未華子さん、原田泰造さん、坂東彌十郎さん、生田絵梨花さん、古川雄大さんら実力派が名を連ねています。
語りは研ナオコさん、主題歌はMrs. GREEN APPLEの「風と町」です。
個別キャラクターの恋模様や史実的背景については、以下の記事もあわせてどうぞ。
→ 風、薫る 安の恋の史実まとめ
→ 風、薫る りんとシマケンの恋の行方
ピクの視点|朝ドラ歴18年で見た看護師モデル作品との比較
ここからは朝ドラ歴18年、九州在住・子ども3人育児中の主婦ピクとしての個人的な視点です。
「花子とアン」「あさが来た」など、明治大正の女性の自立を描いた朝ドラはたくさんありました。
ただ、「看護婦の職業史」そのものをここまで正面から扱う作品は、私の記憶ではかなり久しぶりです。
巷では「明治の話は遠い」と言われがちですが、私はむしろ逆だと思っています。
実在モデルの二人は、離婚や孤児という「制度に守られない立場」から、自分たちで仕事の仕組みごと作りました。
子ども3人を育てながら在宅で働く今の私にとって、これは遠い昔話ではなく、働き方の原型そのものに見えます。



まとめ|史実を知ると「風、薫る」がもっと面白い
ここまで「風、薫る」の訪問看護の実在モデル、ネタバレを含む見どころ、明治大正の看護婦制度をまとめてきました。
- 実在モデルは大関和(りん)と鈴木雅(直美)の2名
- 原案は田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』
- 日本初の派出看護婦会は1891年に鈴木雅が設立
- 大関和は1909年に大関看護婦会を開設
- 1915年の看護婦規則で職業として公式化
実在モデルの生涯を知ってから観ると、りんの一歩一歩の重さがまったく違って見えてきます。
ネタバレを気にしすぎず、史実の背景を知った上で楽しむのがおすすめです。
参考文献
- NHK公式|連続テレビ小説「風、薫る」
- Wikipedia「風、薫る」
- Wikipedia「大関和」
- コトバンク「大関和」(ブリタニカ国際大百科事典 ほか)
- 環境再生保全機構|大関和に学ぶ看護師誕生の歴史
- 女子学院 中学校・高等学校|日本最初の「看護婦」大関ちか
- 日経BOOKプラス|田中ひかる氏インタビュー
- 映画ナタリー|「風、薫る」作品情報
- 田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社・中公文庫)









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